約 1,885,422 件
https://w.atwiki.jp/sangokushi11/pages/1836.html
https://w.atwiki.jp/saitowiki/pages/13.html
ウィキペディアより引用します。 読むのが面倒だ!という方は日本における三国志の受容と流行までの文を読んでから 管理人が最後に書くまとめみたいなんでも読んでみてください。 といっても管理人もあまりよんでませんが。 三国志(さんごくし)は、中国の後漢末期から三国時代にかけて群雄割拠していた時代(180年頃 - 280年頃)の興亡史である。“三国志”と呼ばれるのは、ほぼ同時代の歴史家陳寿(233年 - 297年)がこの時代の出来事を記録した歴史書の名前が、『三国志』であることにちなむ。 「三国志」とはその名のとおり、魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国が争覇したことから付いたものであり、三国時代のことを叙述した歴史書が、元蜀の家臣で後に西晋に仕えた陳寿によって『三国志』と名づけられた事に由来する。この時代の曹操・孫権・劉備らが争い合ったことは一般にも良く知られている。 その後、歴史書の『三国志』やその他の民間伝承を基として唐・宋・元の時代にかけてこれら三国時代の三国の争覇を基とした説話が好まれ、その説話を基として明の初期に羅貫中らの手によって『三国志演義』として成立した。 「三国志」の世界は『三国志演義』を基としてその後も発展を続け、世界中に広まった。 日本における三国志の受容と流行 正史の受容 『三国志』の伝来時期は正確には判明していないようである。 天平宝字4年(760年)に成立した『藤氏家伝』大織冠伝には蘇我入鹿の政を「董卓の暴慢既に國に行なはる」と批判する記述があり、すでに董卓の奸臣としてのイメージが形成されていた事が窺われる。 天平宝字4年淳仁天皇は舎人6人を大宰府に遣わして吉備真備の下で「諸葛亮八陳」「孫子九地」といった陣法を修得させている(『続日本紀』巻23)。 神護景雲3年(769年)称徳天皇が大宰府の請に応じて『史記』『漢書』『後漢書』『三国志』『晋書』を下賜している(『続日本紀』巻30)。これらの史書が日本国内に普及する過程を示す一例である。 藤原佐世が撰述した平安初期の漢籍目録『日本国見在書目録』には[2]当時の日本に存在した後漢時代の史料として『東観漢紀』『後漢書』『三国志』『後漢紀』『帝王世紀』を挙げる。また、平安末期の藤原通憲(信西)の『通憲入道蔵書目録』には「『魏呉蜀志』二十帖」があり、藤原頼長は読了した漢籍として「『三国志』帝紀十巻」を挙げている(『台記』巻3・康治2年(1143年)9月29日条)。 『太平記』巻20「斉藤七郎入道々献占義貞夢事付孔明仲達事」(西源院本の事書)には、大蛇に変身する夢を見た新田義貞が吉夢であると喜ぶが、斉藤道献は密かに大蛇を「臥竜」諸葛孔明の奮闘と無念の死に重ね合わせ、燈明寺畷での義貞の戦死を予感するという描写がある。この物語は曹操・劉備存命中に五丈原の役が起こるなど、史実や演義などと異同がある上孔明の出廬の場面も潤色されており、日本でアレンジされた一つの三国志物語とも言える。 中世以降、五山の学僧や江戸の漢学者は主に朱子学に基づき三国志の人物を論評した。諸葛亮が「王佐の才」を有するか否かについて鵜飼石斎はこれを肯定し、伊藤仁斎はこれを否定した[3]。 林鵞峰以降、江戸期の漢詩の題材としても三国志の人物が好まれ、特に関羽と諸葛亮が至忠の烈臣として讃えられた[4]。明治期の土井晩翠の新体詩「星落秋風五丈原」(明治32年(1899年)『天地有情』所収)もこの伝統を踏まえたものである。 明治以降の正史に基づいた史伝として内藤湖南『諸葛武侯』(東華堂 1897年)、吉川幸次郎『三国志実録』(筑摩書房 1962年)がある。また陳舜臣『秘本三国志』などの小説の一部には正史の記述が取り入れられている。しかし、吉川三国志などの急速な普及により三国志といえば、『三国志演義』の物語を指すのが通常であった。 状況が一変するのは『世界古典文学全集24 三国志』全3巻(筑摩書房 1977年 - 1989年)で『三国志』が初めて日本語訳され、1993年に文庫版が発売されてからである。これにより、一般の三国志愛好家が正史を読むことができるようになり、多くの人々が『三国志演義』により固定化されていたイメージに疑問を持つようになった。これ以後、正史を基礎とした三国志の解説書が多数登場し、漫画やゲームなどにも正史を基にした作品が現れるようになる[5]。ただし、これらの作品はいずれも横山三国志(漫画家横山光輝)など従来の演義ベースの設定に拠っている部分も多く(特に人物の外見や武具など)、純粋に正史に基づいた作品というよりは、演義に基づいた三国志ブームの中で人物設定や出来事など一部の事柄を正史に基づいて再構成したという意味合いが強い。 三国志演義・大衆文化の受容 『三国志演義』の伝来時期は確定されていないが、江戸初期には『演義』受容の記録が漸く増加し、詩文などの中に演義の影響を受けたものも見られる。[6]林羅山は慶長9年(1604年)までに『通俗演義三国志』を読了した[7]。また、元和2年(1616年)に徳川家康の遺志により駿府の文庫から水戸藩・尾張藩へ移された書籍の内に『演義』があった[8]。 『三国志演義』の日本語訳として、元禄2年(1689年) - 5年(1692年)に湖南文山(『大観随筆』によれば天龍寺の僧義轍および月堂の筆名)『通俗三国志』が刊行される。これは日本語完訳された初めての外国小説であり、満州語版に次いで2番目の外国語訳『三国志演義』である[9]。同書は以後も再刊を繰り返し、葛飾戴斗(葛飾北斎の弟子))の錦絵を付した池田東雛亭編『絵本通俗三国志』(天保7年(1836年) - 12年(1841年刊)が人気を博し、明治には幸田露伴『新訂通俗三国志』(東亜堂書房 1911年)がある。 明治以後には『通俗三国志』以外にも諸種の訳が現れ、明治期には久保天随『新訳演義三国志』(至誠堂 1912年)が名高い。戦後は小川環樹・金田純一郎『三国志』(岩波文庫 1973年 改版88年)、立間祥介『三国志演義』(平凡社 1958年、徳間文庫 1983年)、井波律子『三国志演義』(ちくま文庫 2003年)、渡辺精一『新訳三国志』(天・地・人の巻 講談社 2000年)があり、これらの訳本は改稿・重版を経て現在も通行している。 『通俗三国志』の刊行以後、大衆文化にも三国志が普及し歌舞伎においては早くも文化8年初演「助六由縁江戸桜」に「『通俗三国志』の利者関羽」という台詞が出る。また万延元年初演「三人吉三廓初買」では「桃園ならぬ塀越しの、梅の下にて」義兄弟の契りを結ぶ場面がある。また元文2年初演の作品に「関羽」というそのものずばりの題名もある。近年では市川猿之助のスーパー歌舞伎『新・三国志』がある。 洒落本では夢中楽介の『通人三国師』(天明元年(1781年)刊がある。劉備が吉原で料亭を営むところに借金を抱えた孔明が転がり込み、さらに仲達が押し掛けるが孔明の計略で撃退される、という筋立てである。このような三国志のパロディは文人のみならず読者層にも三国志の物語が広く敷衍していたことを示すもので、江戸人の『演義』読解への熱意を見出す見解がある[10]。 曲亭馬琴は羅貫中ら中国の小説家を崇敬し自らを羅貫中になぞらえており、読本の表現手法において『三国志演義』に負うところが大きい[11]。その一方、随筆においては関羽に対する辛らつなコメントを残している。 戦国の人物を三国志の登場人物になぞらえることも行われ、竹中半兵衛は諸葛亮に擬せられ[12]、豊臣秀吉・徳川家康は諸葛亮の智謀・関羽の勇を兼備した武将と評された[13]。 明治以後は『三国志演義』をもとにした時代小説も多く現れるようになり、児童向けの野村愛正『三国志物語』(大日本雄弁会講談社 1940年)などがあるが、戦後の三国志ブームの礎となったのが吉川英治の新聞小説『三国志』(『台湾日日新報』等に連載。単行本は大日本雄弁会講談社 1948年・六興出版 1956年)である。戦闘シーンなどの冗長な描写を省き、人物像にも独自の解釈を取り入れた格調高い歴史文学として評価されている。また、中国人と日本人との感性の差を考慮し、日本人にとって受け入れがたいエピソード(劉備をもてなすのに劉安が妻を殺してその人肉を提供するなど(鉢の木のエピソードの原型版))に作者のコメントを寄せるなどの改変を行っている。それまで単なる悪役扱いだった曹操を、人間味あふれる乱世の風雲児として鮮やかに描いているのが特徴である。日本では、吉川三国志が事実上の底本となっている。これ以後柴田錬三郎『三国志』(鱒書房 1955年)『柴錬三国志 英雄ここにあり』(講談社 1975年)『柴錬三国志 英雄生きるべきか死すべきか』(講談社 1977年)[14]、陳舜臣『秘本三国志』(文藝春秋 1974年)『諸葛孔明』1991年 『曹操』1998年(各.中央公論社 のち同文庫)、北方謙三『三国志』(角川春樹事務所 1996年)、安能務『三国演義』(講談社 1999年)、宮城谷昌光『三国志』(文藝春秋 2004年)を代表とする「三国志」小説が次々と登場する。 戦後のメディア作品としては吉川三国志をそのまま漫画化した横山光輝の漫画『三国志』や人形劇の『人形劇三国志』などが高い評価を受けた。また、曹操を主人公とした漫画である『蒼天航路』も高い評価を受けている。ゲームについては、『三國志シリーズ』や『真・三國無双シリーズ』などがヒット作品となっている。2008年には、ジョン・ウー監督のもとで「赤壁の戦い」をメインにした映画『レッドクリフ』が公開され、ヒット作品となっている。 高度成長期のビジネス競争の過熱の中で、競争を生き抜く知恵や企業のリーダー像の見本として、『孫子』などともに『三国志演義』もしばしば引き合いに出され、『三国志演義』に学べとしたビジネス書が多数刊行された。 1980年代以降、ゲーム・漫画において爆発的な三国志ブームが起き、三国志はジャンルの一つとして定着する。その後今日に至るまで、漫画やゲームや映画やアニメとして多数の作品が出版・製作され、不動の人気を博してきた。また他にも、三国志に出てくる人物の名前やその時代観を基にした、全く違ったものが作られるなど多彩なものと成りつつある。 そしてそれら三国志を題材にした作品は、必ずしも『三国志』あるいは『三国志演義』に忠実なものではなく、大きく改変が加えられているものも多い。特に顕著な傾向として、諸葛亮死後以降の展開については省略が目立ち、晋の統一に至るまで忠実に描き切った『三国志』作品は国内では皆無である。また、「もし、こうなっていたら」という仮定の設定で作られているものや、君主の設定が少し違うもの、あるいは基になっている人物の性別を換えているものなど、多種多様な作品が存在している。 三国志とは蜀の臣下の陳寿という方が記した歴史書だったんですね。 みなさん三国志は吉川三国志やその漫画版 横山光輝の三国志、 あるいはコーエーのゲーム三国志、三国無双。今年はレッドクリフなどの方がほとんどでしょうが ほとんどが三国志演義ベースなんですね。 北方謙三などが正史ベースです。 蒼天航路はどっちかな? えぇ?正史とか演義って何?ってかたは正史と演義を。 興味をもっていただけましたか? このwikiを読み通せばあなたも立派な 三国志オタク!!
https://w.atwiki.jp/sangokushi11/pages/1965.html
https://w.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2037.html
https://w.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2052.html
https://w.atwiki.jp/sangokushi11/pages/1893.html
https://w.atwiki.jp/sangokushi11/pages/2011.html
https://w.atwiki.jp/nicosangokushi/pages/614.html
このページは数あるニコニコ歴史戦略ゲー動画の登場人物について、各動画内での列伝をまとめていくものとして用意しました。 主役級の活躍を見せた人物はもとより、名脇役、好敵手からネタ☆キャラまで幅広く紹介されるページになることを願います。 ここでは三国志の人物について扱います。 参考用リンク先(需要のありそうなものがあれば随時追加推奨) Category 三国志 - Wikipedia :史実についての参考リンク 幻想水滸伝・三国志を知らないけど、興味ある人の為の解説サイト ニコニコ歴史戦略ゲー 武将紹介 公開マイリスト :史実武将紹介動画 武将別解説 - 三国編 :iM@S架空戦記シリーズ補完wikiより三国武将紹介 『三国志の登場人物の一覧』 :ニコニコ大百科での三国志人物項目一覧 武将別伝(三国志) ア行 ハ行 ハ ヒ フ ヘ ホ カ行 カ キ ク ケ コ マ行 サ行 サ シ ス セ ソ ヤ行 タ行 タ チ ツ テ ト ラ行 ラ リ ル レ ロ ナ行 ワ行 董允(トウイン) 鄧艾(トウガイ) 鄧芝(トウシ) 陶濬(トウシュン) 董卓(トウタク) 董白(トウハク) 杜預(トヨ/ドヨ) 董允 (トウイン) [部分編集] (?~246)字は休昭(キュウショウ)。蜀の政治家。董和の子で、父と共に劉備に仕え、劉禅の側近に取り立てられた。黄皓を重用しようとする劉禅を厳しく諌め、黄皓を出世させなかった(彼の死後、黄皓は権力を得る)。 諸葛亮、費禕、蒋琬と合わせて「蜀の四相」と呼ばれている。 三國志IX 統率 32 武力 29 知力 77 政治 90 三國志11 統率 47 武力 28 知力 78 政治 91 魅力 79 指導 上へ 鄧艾 (トウガイ) [部分編集] (197?~264)字は士載(シサイ)。元々は鄧範(字:士則)と名乗っていたが、同名の親族に憚って改名した。 司馬懿に抜擢され、農業政策や軍事面で大きな功績を残し、蜀攻略戦では成都へ一番乗りして、劉禅を降伏させた。 鍾会の計略により反逆者扱いで捕縛され、衛瓘・田続に殺されてしまった。 実際は忠臣であったと言われており、後世ではその無念の死に嘆く人も多く反逆者扱いは取り消され、一族は残った。 中国では昔から神として崇められていたが、文化大革命の時に廟が破壊されてしまった。 三國志IX 統率 91 武力 88 知力 92 政治 76 三國志11 統率 94 武力 87 知力 89 政治 81 魅力 70 強行/槍兵S,戟兵A,弩兵A,騎兵A,兵器S 関連タグ: 【鄧艾】 ニコニコ大百科: 『鄧艾』 ゆかりんが中国統一に挑むようです 【三国志11】 +レミリア軍武将 重度のロリコンのレミリア信者。兵士A・B同様に(有能だが)レミリアには毛嫌いされている。 八雲紫軍に編入後は味方から落雷を受けるのがお約束に。 上へ 鄧芝 (トウシ) [部分編集] (?~251)字は伯苗(ハクビョウ)。後漢建国の名臣・鄧禹の子孫。益州を平定した劉備に評価されて蜀に入る。劉禅即位後、険悪であった呉に出向き、孫権を相手に優れた弁舌で友好を回復させた。孔明の北伐に従軍し、趙雲の副将として活躍した。智勇兼備の将として光栄三国志でも初期の頃から評価されている。 三国志大戦では何故かショタキャラにされている(別に彼に限ったことではないが)。トウの字が出しにくいため、「東芝」と呼ばれることも。 三國志IX 統率 73 武力 46 知力 74 政治 86 三國志11 統率 73 武力 52 知力 81 政治 85 魅力 88 論客/弩兵A,兵器A ニコニコ大百科: 『鄧芝』 上へ 陶濬(トウシュン) [部分編集] (?~?)呉末期の鎮南大将軍・荊州牧。晋の杜預の破竹の進撃を迎えて最後の決戦を挑もうとするが、配下の兵2万が一夜のうちに逃亡した。 なんといっても「三國志Ⅸ」の 強烈な顔グラ である。彼を主人公にした動画まで出来上がるほどの人気。出オチにされたり、企画的な動画の司会を務めたり、実験のネタにされたり、MADの主役になったりと、出番も多い。ついには歴戦やコーエー三国志の枠を飛び出して動画のネタにされるほどである( これ とか これ とか)。銅鑼との組み合わせは卑怯なほど。 三國志Ⅸ 統率 72 武力 64 知力 55 政治 51 三國志11 統率 65 武力 66 知力 46 政治 44 魅力 55 兵器A,水軍A 関連項目: 顔自重 、 顔君主 関連タグ: 【陶濬】 、 【顔君主】 ニコニコ大百科: 『陶濬』 +AA , - ''  ̄`ヾ丶 / // ヘ. . .⊥__ / l 〃 .. r‐`'''ヽ__\ニ'丶、 / / リ / .,.r ' ´ i ラ `丶 / l' 〃/ / ゝ r 二 、ノ. \ ! / l ,' / ,、r‐‐----‐''二ヽ ', . ! / ! .ノ/.| ,' ./ェニ==-. .‐'二`! l l ノ〆 ノ/ .レ ! ∠oヽ. .┴'` l | ゝ、 ',ヽ l | .、 ヽ l | / . l ハ. ハ |、 └' ‐' ′ リ ./ l川ノ ヽ ! ,r'=ヽ ,',イ l`'ー-', 〈、__リ /! ヽ ,' .lヽ. `ー ′,'├‐-二'、 ,. ----‐' ,./l、`' 、 __/ ノ丿 ノ ヽヽ-、_ . / /ー ` ` ‐ 、__ _,,∠ ´ ノ 君主は陶濬 【三國志Ⅸ】 +主人公。顔君主。カオブレイクあり 主人公。顔君主。偉大なる顔帝国の顔皇帝である顔。 実際のところは大きな度量と冷静な戦略眼、民を思う仁の心を併せ持っており、また沈熊をはじめ多くの優秀な弟子を育てているなどなかなかの傑物である。 視聴者曰く「(顔以外は)まともな君主」「(顔以外は)名君」「(顔を見なければ)かっこいい」「むしろ顔もかっこよく見えてきた」と言われている。 他の動画主からネタの題材にされることもしばしば。銅鑼で顔を連想する体質にされた人も多い。 天公将軍張角の挑戦 【三國志Ⅸ】 +陶濬軍君主。 北海を拠点としていたが、レミリア軍に攻められ、まさかの処断。 後を継いだのが射命丸文だったため、謀殺されたのではないかとの噂も。 その後、何者かの力によって復活し、紆余曲折を経て張角軍に加入した。 例によって顔以外はまともな人材。 騎将張繍の野望 【三國志Ⅸ】 +張繍(プレイヤー)軍武将。 第一話にて探索で発見されるという、神懸かり的展開によりデビュー。 これがこの動画の方向性を決定づけたとかなんとか。 そして例によって顔以外はまともな人材。 中華武将祭り 【三國志Ⅸ】 +在野武将→北郷軍武将。 第45話で縦横無尽の大活躍(?)を遂げた後、第49話にて北郷軍に加入。例によって顔以外は(ry ちなみに全能力が+20されている。 軟国志 【三國志Ⅸ】 +陶濬軍→八雲紫軍→北郷軍 初期群雄の一人であったが八雲紫軍に滅ぼされた。以後その幕下で活躍。 八雲紫軍滅亡と共に北郷軍に降る。 例によって顔(ry ニコニコ歴史戦略ゲーランキング +ニコニコ歴史戦略ゲーランキングの顔。 コミュニティの入り口は、陶濬と「ランキング」の文字が目印だ。 エンコード実験 まじめな実験のサンプルになっている。 上へ 董卓 (トウタク) [部分編集] (?~192)後漢の相国。字は仲穎(チュウエイ)。若い頃は兵士思いで兄貴肌の人物だったという。黄巾の乱後の政変に乗じて王朝の中枢に入り込み、以後専横と暴虐の限りを尽くす。最期は養子の呂布に裏切られ殺された。 一部の所業を除けば「董卓程度のことは権力を掴んだ人間の多くがやっている」「後に専横と呼ばれた行為にも一定の理が見出せる」「どちらにしろ後漢の崩壊は時間の問題だった」と再評価を図る向きも有る。 動画ではそれなりに人気がある。愛称は「豚」。たまに役職名の「相国(さま)」と呼ばれる事も。 三國志IX 統率 69 武力 83 知力 66 政治 19 三國志11 統率 74 武力 87 知力 69 政治 19 魅力37 徴税/弩兵A,騎兵A 関連タグ: 【董卓】 ニコニコ大百科: 『董卓』 赤兎三国志 【三國志Ⅸ】 +董卓軍滅亡後に赤兎軍に加入、加入時に紙芝居あり、一軍、キャラブレイク?あり さまざまな悪評が流れていたがその本性は誠実な人間。 彼が為したといわれている悪行は実は彼の参謀であった李儒が彼の名を騙って為したものであり、 本人は一切あずかり知らぬことであった。 軍滅亡後、しばらく記憶喪失となり、僻地の農村にて己が身分を忘れて生活していたが 自分の軍の残党により村が襲われるのを見て記憶を取り戻し、これまでの真実を明かした李儒に対して 為してきたことを清算させようとして赤兎軍に参加する 永遠亭の中華統一記 【三國志11】 +顔グラ変更、ネタキャラ化、もはや別人 実際に別人。董卓本人は異変の首謀者である東方キャラ八雲紫によりどこかに追放され、 ただ楽しそうだからという理由でオレンジが彼の存在を肩代わりしているのである。 本来の彼は気弱ではあるが、漢の行く末を心配していた忠臣。 騎将張繍の野望 【三國志Ⅸ】 +董卓軍君主。 元主君ということで張繍はいつか挑む壁として見据えていたのだが、配下の李傕が神奈子軍君主である八坂神奈子の逆鱗に触れたために長安を奪われ滅亡。華雄と共に張繍軍に流れてくる。曹操とは喧嘩飲み友達。 反袁紹包囲網 【三國志11】 +きれいな董卓 劉協を擁立し司空に就任。曹操と手を結んだ英傑。 中華武将祭り 【三國志Ⅸ】 +様々な董卓がいる 現時点で三人くらいいる。 本物董卓は、ドラシス董卓軍の配下として活躍中。 本物武将がキャラブレイクを起こしやすいこの動画においては珍しくまとも。 傲岸不遜な性格ながらもそれに見合った実力を持つ良将である。 上へ 董白 (トウハク) [部分編集] (?~192?)董卓の孫娘。父母は不明。董卓が権力を振るっていた頃に、成人していないのにもかかわらず領地を与えられたことが正史の註に記載されている。正史の記載は以上。董卓誅滅後、王允や呂布らに捕らえられ処断されたものと思われる。 貴重なロリ女性キャラとして「三国志大戦」で取り上げられ、ツンデレキャラとして人気。「おじい様に言いつけてやる!」「私のおもちゃにしてあげる!」というセリフにメロメロになる人も多数。 関連タグ: 【董白】 ニコニコ大百科: 『董白』 董白で世界を攻略する( 1 ) 【三国志11】 +主人公、董白軍君主。 主人公、董白軍君主 登録武将、初期配置は長安。三国志武将は大戦グラに差し替え。そのほか、アニメ・ゲーム等のキャラの登録もあり。1-2で紹介あり。漢中の西園寺世界と抗争する序盤?で更新中断。 紹介時 統率 77 武力 43 知力 72 政治 63 魅力 81 涼書董白伝 【三國志Ⅳ】 +主人公。紙芝居オンリー動画。 主人公。プレイを元にした、ゆるい雰囲気の紙芝居オンリー動画。 おじい様の扱いが酷く、無口っ子徐晃に嫉妬し、機嫌が悪ければ王允を殴る暴君。だがそれがいい。胸の話は禁句。自称「殴り系ヒロイン」。 統率 84 武力 35 知力 32 政治 85 魅力 92 上へ 杜預 (トヨ/ドヨ) [部分編集] (222~284)魏~晋の将軍・政治家・学者。字は元凱(ゲンガイ)。司馬昭の妹婿。蜀の攻略や辺境の平定に従軍。呉を滅ぼした戦いでの電撃作戦は「破竹の勢い」という故事成語の元になった。 文官の家の出身で、馬も弓射も不得手という戦略家タイプの将軍。政治家としては律令の制定に関わり、学者としては『春秋左氏伝』の研究に没頭した(左伝癖)。前述の故事より「破竹」の愛称で呼ばれる事もある。 余談だが、彼の子孫が「詩聖」杜甫である。唐代以前は曹植のモノだった「詩聖」の称号を、晋の臣である杜預の子孫が奪ったという歴史の妙がある。 三國志IX 統率 85 武力 66 知力 84 政治 81 三國志11 統率 85 武力 30 知力 85 政治 80 魅力 81 昂揚/槍兵A,弩兵S,兵器S,水軍S 関連タグ: 【杜預】 、 【破竹】 上へ いつの間にAAがw -- 名無しさん (2009-01-30 23 07 40) カオブレイクに不覚にも大爆笑・・・ -- 名無しさん (2010-10-21 21 32 53) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/sangokushi11/pages/1990.html
https://w.atwiki.jp/sangokushi11/pages/1896.html